横井軍平さんは元任天堂の開発者で、ファミコンやゲームボーイの生みの親です。
他にもどんな玩具やゲームを作っていたのか気になりますよね。
また、横井さんは56歳の若さで亡くなっています。
この記事では、横井さんの経歴や今の任天堂の根幹となったと言われる名言、ファミコンに採用されrている十字キーの開発裏話に加えて、横井さんの事故や死因についての詳細にも触れています。
1.横井軍平のプロフィールと経歴
横井軍平さんについて見ていきます。
①横井軍平プロフィール
本名 | 横井軍平(よこい ぐんぺい) |
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生年月日 | 1941年9月10日(享年56歳) |
出身地 | 石川県小松市 |
所属 | 任天堂株式会社→株式会社コト |
趣味 | 鉄道模型 |
特技 | 玩具づくり |
②横井軍平の経歴
横井軍平さんは石川県小松市出身です。
小学生の頃から鉄道模型にハマり、生涯の趣味となりました。
大学は地元を離れます。
京都の同志社大学工学部電子工学科へ進学し、後のおもちゃづくりの礎となる知識と技能を身に着けました。
本人曰く成績は下から数える方が早く、就職活動にも苦戦したとのこと。
当時、改正となった電気事業法によって、一定以上の電気設備のある会社には電気主任技術者の資格を持った人が所属している必要がありました。
横井さんは電子工学科卒で、電気主任技術者の資格があったため、そのための採用だったと考えていたようですね。
任天堂ではトランプや花札を製造する機械のメンテナンスを行う部署に配属されて、日常的には退屈な仕事だったそうです。
退屈しのぎに作った玩具を当時の社長・山内溥氏に見出されて商品化されたことが開発者としてのスタートでした。
その時作ったのが大ヒット作「ウルトラハンド」でした。
↓ウルトラハンド
当時、玩具は10万個売れたら大ヒットという時代、ウルトラハンドは140万個も売れました。
文字通り桁違いですね。
横井さんは経費やウルトラハンドを作るための金型を作る工場や見積もりなど、全てを1人でやったそうです。
それが大ヒットしてしまうんですから、横井軍平さんはまさに任天堂を日本の小さな玩具メーカーから世界の任天堂になるきっかけとなった人ですね。
そこから横井さんが作る玩具を山内社長がトップダウンで商品化を決めるという流れが出来ていきました。
そうして開発・販売・ヒットさせた商品は、
- ウルトラハンド
- ウルトラマシン
- ウルトラスコープ
といったウルトラシリーズを始め、
- ドライブゲーム
- ラブテスター
- 光線銃SP
- N&Bブロッククレーター
- エレコンガ
- 光線電話LT
- レフティRX
- タイムショック
- レーザークレー
等の大ヒット玩具たちでした。
また、
- ワイルドガンマン
- ダックハント
等の、ファミコンソフトのタイトルの元となる玩具も開発しています。
これらの玩具は、医療や軍事等で既に開発されて一般的となった技術をとりいれていたと言います。
その手法は以下の名言のところで説明します。
2.横井軍平の名言
横井軍平さんには2つの名言があります。
- 枯れた技術の水平思考
- 女の子にもてたいと思う気持ちがアイデアが生まれるコツ
というものです。
順番に見てみましょう。
①枯れた技術の水平思考とは?
枯れた技術の水平思考は上で紹介した玩具を作るうえで横井さんが取り入れていた手法を表す言葉です。
玩具は面白くて安くないと売れません。
広く消費者に広がるためには、面白いだけではダメなんですね。
安いことが重要です。
それには先端技術を取り入れる必要はなく、既に実現されて一般的となっている技術を利用することがポイントです。
横井さんが最初に開発した「ウルトラハンド」では、もともとは体の不自由な人が遠くのものを取るために開発された介護用品でした。
それを玩具に流用したわけです。
炭素繊維(カーボン樹脂)が宇宙工学から航空機の部品、ゴルフクラブや釣り竿等の日用品へと徐々に使われるようになり安くなっていったように、技術は普及するとコストが低くなっていきます。
横井さんは、そうした既にある技術を工夫して玩具に使うことを「枯れた技術の水平思考」と呼んでいたわけです。
この考え方は、世界にまだ存在しない商品を開発する根本的な考え方であって、現在の任天堂にも脈々と受け継がれている手法なんだとか。
横井軍平という人は単にヒット作を生み出しただけでなく、企業の根幹となる思想の部分を作った人なんですね!
②ヒット商品を生むコツとは?
横井さんがよく息子さんに言っていた言葉に
女の子にモテたいと思う気持ちがアイデアが生まれるコツ
というものがあります。
さらに、人の気持ちを引きたいと考えるのは男女問わず同じで、そうした気持ちを持って商品開発をすることで、ヒット商品が生まれると語っています。
そう考えると、多くの人が喜ぶものを作るにはお客さんの心を掴む必要がありますよね。
つまり、モテたいという気持ちを持つというところがヒット商品を作る根本だということです。
3.ファミコン十字キーの開発裏話とは?
ファミリーコンピュータは1983年に発売された任天堂の家庭用ゲーム機で、現在の据え置き型ゲーム機の元祖となる商品です。
発売半年で45万台を売り上げ、2年目に165万台となり合計200万台をクリア。
空前の大ヒット商品ですが、それから数年間、ライバルと呼べるような商品が出てこなかったことも凄いですよね。
真似しようんにも出来ないものだったわけです。
ファミコンにはアイデア段階で、他に類を見ないものを作るちう考え方から、いろんな工夫が取り入れられてきたんです。
その1つが十字キーですね。
アーケードゲーム全盛の時代、ゲームセンターにはジョイスティックで前後左右の動きを操作するゲームが主流でした。
当初はファミコンでもジョイスティック型のコントローラーが考えられていましたが、収まりの悪さから他の手法が無いかを探したそうです。
そして、既に発売していたゲームウォッチ「ドンキーコング」に白羽の矢が。
ドンキーコングには十字キーが採用されていました。
横スクロールアクションゲームのドンキーコングでは、十字キーで左右上下の動きを捜査します。
十字キーは、ゲームウォッチの薄い本体に収まり、なおかつジョイスティックの操作性を実現できるように考案された技術です。
その十字キーはジョイスティックに比べて非常に安く作ることが出来またそうで、そのままファミコンに流用することでファミコン本体のコストを抑えることができたんですね。
ファミコン本体の14800円という価格。
わたしも未だに忘れることなく覚えてます。
それが高いのか安いのか当時は分かりませんでしたが、あの1万4千800円という響き自体がファミコンの魅力の一つとなっていたと感じますね。
14800円を実現する大きな要素に、十字キーがあったということです。
4.横井軍平の死因と事故の詳細
横井軍平さんの死因や、原因となった事故についてです。
①横井軍平の死因は?
横井軍平さんは交通事故によって56歳の若さで亡くなりました。
死因は、外傷性ショックだったそうです。
外傷性ショックは、主に衝撃によって出血し、前身に血液が回らなくなってしまうことで心臓や肺等の循環機能が著しく低下することを言います。
事故の詳細は以下です。
②横井軍平の事故の詳細
横井軍平さんは、任天堂を退社して株式会社コトを設立した1年後に事故死しています。
1997年の10月4日に、北陸自動車道上り線(石川県能美郡根上町)で横井さんを載せた車が前を走る軽トラックに追突しました。
運転していたのは横井さんの知人男性だったそうです。
横井さんは、動けなくなった軽トラックを動かして安全な場所に移動させようと社外に出た際に、後ろから来た乗用車にはねられてしまいました。
事故の際には気が動転していて、後ろから来る車を確認できなかったんではないかと言われています。
小松市民病院に搬送されましたが、外傷性ショックにより亡くなってしまいました。
横井さんは、大企業と成長した任天堂に感謝しながらも、自分の好きな玩具を作りたいという思いから独立して株式会社コトという会社を立ち上げました。
開発のみ行い、製造や販売は外注に出すというスタイルです。
アイデアを出すことに特化した会社で、横井さんが任天堂内で行なっていた業務をそのまま1つの会社にしたようなものですね。
設立後の慌ただしさも落ち着いて、これからと言う時の突然の死に、日本のゲーム界に大きなショックが広がりました。
以上、今回は横井軍平さんの経歴や名言、ファミコンの十字キーの開発裏話、死因と事故の詳細を紹介しました。
目次〜この記事の内容〜
横井さんは類まれなアイデアとヒット商品を作る工夫も生み出せる才能を持った人でした。
本当に惜しい才能を失ってしまいましたね。
ですが、任天堂には横井さんの提唱した根本的な考え方「枯れた技術の水平思考」が継承されていて、良いもの、喜ばれるものを作る精神の根幹を支えています。
つまり、横井さんの魂が宿っていると言っても過言ではありませんね。
横井さんの考え方はヨコイズムとよばれ、横井さんと並ぶ開発者宮本茂さんのゲーム開発にも大きな影響を与えていると言われています。
事故で亡くなってしまったのは残念ですが、本当に大きなものを残してくれました。
わたしにとっても、人生においてファミコンの思い出って大きいです。
本当に多くの人の生活に彩りを加えてくれたんですね。
この記事を書くうえで色々と調べましたが、非常に勉強になりました。
もっと早く知っておきたかったと思いますね。
最後まで見ていただきありがとうございました。
次の記事もお楽しみに。
では!